【GUAM】 グアム歴史館 (非支配者の歴史観)

タロフォフォの滝のそばにグアム歴史館という小展示があります。
グアムの歴史を手っ取り早く知りたい方には非常にわかりやすくなっています。
大まかにグアムについて知っているつもりでしたが、特に戦争中のことを知りたくて、入ってみました。
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グアムの歴史は被支配者としての歴史です。これは今も変りないと思います。
軍用施設に利用されている土地は間違いなく、先住民である彼らが生きて行くために所有していたものです。
彼らの不幸のはじめは大航海時代
マゼラン艦隊を派遣したスペインが、キッチリ定番の仕事をして植民地化を進めました。
財産や女性を取り上げ、男は奴隷として重労働をさせたということです。
やはり当時のスペイン、ロクでもないことをしていました。宣教師を派遣し、カトリックを布教教育を施し、先祖崇拝は禁止となりました。
スペインに抵抗する最後の一人が倒れたとき、完全な植民地となったのです。
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その後スペインの統治は400年間続き、アメリカがやってきます。
アメリカはスペインを挑発して真珠湾同様”先に撃たせることに成功”し、それを口実に戦争を仕掛けてグアムから追い出してしまいました。
”白は良い。茶色はダメ”と劣等感を植えつけ、英語を強制的に使用させ、学校でチャモロ語を発した生徒は本を頭にのせて長時間立たされたということです。
統治者が変わってもチャモロの人たちはヒドイ目に会い続けたとのことです。(それでもスペインよりはマシだったようです。人形がムチで打たれてないので。)
太平洋戦争が始まり、日本がグアムを統治する期間がありました。
とはいえ、大日本帝国も欧米同様やることは母国語の押し付けと強制労働でした。
日本語学校ができ、子供たちへの教育と大人たちへの教育が始まります。
とくにお辞儀の仕方をものすごく熱心に行ったようです。
皇居の方向を向き、”私たちは陛下のために真面目に働きます”と最敬礼を毎日行ったという年長者の体験談があります。
戦争が不利な状況になると、チャモロ人の扱いはかなり悪化しました。
アメリカ軍の攻撃に短時間で対応する必要があったからです。急ピッチでの建設作業はチャモロ人たちのペースでは考えられない事だったでしょう。
日本軍は彼らの土地を取り上げ、収容所をつくり、トーチカを作らせたり、食料確保のため彼らの農作物をあてにしました。
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幸いチャモロ人収容所は潜伏将校の通信などが役に立ったのか米軍の爆撃を受けず、死者は少なかったようですが、米国の捕虜をかくまった容疑で相当の数のチャモロ人や白人の神父さんなどが殺されたそうです。
収容所では”Uncle Sum”という歌がチャモロ人の間で歌われ、「早く米軍(US)に戻ってきてほしい」という願いを共有していました。
写真には取りませんでしたが、帝国軍が敗走したあと、チャモロ人がアメリカ国旗を振って米軍を迎える様子を描いたものがありました。(ちょいとワザとらしい)
重要施設が破壊され、組織的抵抗が不可能になった日本兵たちは命令通り”自活して”戦争を続行したのでした。
彼らに戦争集結の知らせが届くことはありませんでした。戦争が終わったことを知らずに戦い続けたのです。
米軍が上陸し、空港を整え テニアン島サイパン島を攻略したあとは本土空襲が始まります。
日本軍の兵士がタロフォフォの滝を背後にして腹切りしている図があり、ちゃんと介錯人も付いていましたが、
そんなに多くの人がこの地で自決したとは思えませんでした。隣接するショップのおじさんにこの辺を聞いてみると
「ワカラナイ、ワカラナイ」を繰り返していました。
 
グアムでの米軍とチャモロ人の活動はジャングルに潜む敗残兵の捜索でした。
たびたびの捜索にもかかわらず、横井さんを始め、たくさんの日本兵がグアムに潜んでいたのでした。
1964年に2人の日本兵が発見され、残りの日本兵の捜索が行われましたが、それにも関わらず横井さんは発見されませんでした。
「出て行ったら殺される」という思いも強かったことでしょう。
タロフォフォには横井庄一さんのことを「英雄」と表現する掲示物がたくさんあります。
これはどうやら米軍の考えが関与しているようです。
作戦中に行方不明になる兵士は”MIA”(ミッション・イン・アクション)といい、顕彰の対象となるそうです。
チャモロ人の人たちは米国議会に自分たちの代表を送ることは出来ていません。
しかし、軍で成り立っているこの島では多くの若者が兵士になり、前線に投入されています。
アフガン、イラン、イラクベトナム、朝鮮など米軍の行う戦争には関与させられているのです。
やはり、未だに被支配者である一面を感じざるを得ません。
なお、そうは言っても彼らは前向きです。
「日本の今の世代が戦争の責任を果たすのは好ましくないし、日本を許します。しかし、されたことは忘れません。」
戦争はそれに関わるすべての命を不幸にします。これを繰り返さないよう、問題はすべて人種を超え、極力平和的に解決しなければならないと考えさせられました。