【岐阜県関ヶ原】 大谷吉継陣跡・墓

天下分け目の合戦。
大谷吉継さんは盟友・石田三成の脇を固めて奮戦、小西行長とともに一時は西軍優勢の形成を作りました。
しかし、小早川の裏切りに側面を突かれ、やむなく自害に至りました。

重病で身動きもままならなかった大谷吉継は自陣から400mほどの場所まで移動し自害、首は部下により守られ敵方に渡ることはありませんでした。
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大谷吉継陣跡・天然の要害に綿密な調査の上、布陣した。

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大谷吉継公墓。彼の生き様、潔しとする方々の手向ける花が絶えない。

関ヶ原の戦いは西軍の必勝陣形(要害を抑え、敵を包囲し、兵も多かった。)で開戦したが、
毛利など大軍勢の傍観者やこれまた大軍勢の小早川の寝返りで形勢が逆転しました。

戦場にあって覚悟を決めなかったそれらの武将の扱いが決して良いものでなかったことからも
敵ながら、同じ命を張った同士である家康も”武人”であったと言えるでしょう。