島 左近の墓 (京都市・立本寺)

「三成に過ぎたるものが2つあり、佐和山の城と島左近
石田三成がたったの4万石しか禄がなかった時代に三顧の礼を尽くして迎えた軍師。
左近の年俸はなんと三成の半分、2万石だった。
何かと近視眼的で、好き嫌いを判断に入れてしまう傾向の三成をよく諌め、領地を切り盛りしたという。

関ヶ原の戦いでは主君を守るために被弾した体で小早川隊へ突撃し、行方知れずになった。
(家康側は三成よりも左近の存在を大変警戒しており、黒田隊の銃撃成功はこの戦いの大きなポイント。)
 
~~正史での登場はここまで。~~
 
実は戦場から辛くも逃れ、近江に身を隠していた左近はほとぼりが冷めた頃、
この寺に入り寺男として晩年を過ごしたという。
主君の三成がこの地で処刑され、裏切った小早川が岡山城に入って安穏としているのをどんな気持ちで見ていたことだろうか。(多分、全てお見通しと思うが)

この墓には今でも東京と広島の分家の方々が毎年お参りに来るそうだ。
(管理人のおじさん談)

特に印象深いのは墓の裏に刻んである没年 寛永9年(1632629日> と土台にある「土葬」の文字。
この下に生左近が眠っていると思うと、ちょっとワクワクします。
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