<大阪の台所> 多田銀山 <今は廃墟>

秀吉ゆかりの銀山が兵庫にあると電車の中吊広告を見て(w 行ってみました。
戦国時代の銀山と言えば石見銀山が有名ですが、ここ多田銀銅山も昭和48年まで現役だったとのことです。
大阪の財政を支えるほどの産出量があったとのことで、長きに渡ってここで生活してきた人たちも多くいたことでしょう。

ここは”台所間歩”と言い、天下の大阪の財政を支えた銀を産出した坑道です。
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近くには秀吉が騎乗のまま行動を視察したと云われる”瓢箪間歩”も隣接しています。
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ちなみにこの辺はマムシがよく出るそうで、暑いからと言ってサンダルなどは避けた方がいいかも知れません。
筆者も危うく一匹踏みそうになりました。 ガクガク*1ηナンダカコワイワァ

瓢箪間歩から歩くこと3分。なにやら集落が見えてきました。
電線も通っているようです。
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日本鉱業が鉱脈枯渇により、採掘を終えたのが昭和48年と言いますから、きっとその当時の洗濯機だろうと思います。筆者が子供の頃よく目にした集合住宅であったことが判ります。このころのご近所付き合いは大変和気あいあいとしていました。隣の子供も我が家の子供も分け隔てなく、町内会で育てたものです。本気で叱ってくれたり、心配してくれる大人に見守られて子供は育っていました。
今は、廃墟ですが怖さは感じません。

多田銀山は1500年代から昭和48年までの間、鉱山として存続しました。
しかし、近代の掘削技術向上により、根こそぎ鉱脈を掘られその役目を終えました。
技術の進歩は喜ばしいことばかりではありません。
恐らく、戦後の20年程度で先人たちが掘り出した量の数倍も掘り尽くしてしまったことは想像に難くないところです。
私たちが現在、直面している資源の問題を間近に見たような気がします。

*1:(n;‘Д‘